わたしは30を過ぎたらきっと死ぬのだと思っていた。 苦しいのは今だけだ、じきに30になり、身も心もすっかり楽になると… そう思っていた。 死が自分を救ってくれるのだと思っていた。 平凡で幼稚で逃避的な考え方だと、どこか醒めた調子で思っていたけれど、 それでも30を越えて生き続けている自分をどうしても想像することが出来なかった。 端から見れば悲観主義的ともとれるだろうし、死の予感に縋って生きているというのは実際、前向きとは言えないだろう。 しかし、どうだ。 今わたしはその予定の時を越えて、生きている。 そして、不思議なことにわたしを支え続けてきた明るい死の予感は、やはり本当だった。 30を数年越えたところでわたしは突然死に、生まれ、生き始めた。 なんという皮肉だろう。 死の予感は、実はわたしの闇、病、悲しみ、憎しみ、苦しみからの視点だった。 わたしはそこからようやく、生まれた。 わたしの人生はようやく、始まった。 病に憑りつかれていたわたしは、自分の人生を始めることさえ出来ていなかったというのに、 一体、それは迎え入れるべき祝福の死と生誕の物語だったのだ。 突然に私の中の闇は光に満ち、病は癒され、悲しみは贖われ、憎しみは葬られ、苦しみは消え去った。 #
by osorahahitotu
| 2011-11-21 23:53
多くの人々が感情を終着駅にしたがる。
感情は道標であって、それそのものが目的にはならないのに。 なんのためにそれがもたらされたのかを受け止めなくては、せっかく与えられたものも台無しになる。 感情や感覚がずっと続くことはない。 もしも続くということが起こるなら、たとえどんな甘美であっても、十分に地獄と呼べるだろう。 そんな堂々巡りなことではなくて、より豊かで大きな感受に出会うには、真摯に受け止め、くまなく知り、用意された場所へと辿り着くことが必要だ。 用意された場所の景色は、前もって知る必要はないし、知ることは出来ない。 そんな不埒な真似が出来るのなら、一体何の道標だろう。 そもそも知っているのならば、ひとっ跳びにそこへ行けばいい。 道標など必要がない。 わからないからこその、道案内なのだから。 #
by osorahahitotu
| 2011-11-21 02:08
| ひとりごと
わたしには、ひかりさんと、その分身かのような旦那がいる。
こんなに何もかもが揃っていても、いまだに迷ったり考え込んだりすることもあるんだから、 生きるっていうことはなかなかに大変なことだなぁとおもう。 でも、やっぱり随分と恵まれているということは確かなことで… どのくらい恵まれているだろうかと考えると、それは恐らく世界一といってもいいんではないだろうかと思うのだ。 その裏付けは簡単に想像されうるオノロケや多幸感からくるものではないことを、白状しておきたいが、 きっと本当の裏付け事情を話したところで誰の理解も得られないであろうことは判っているつもりだ。 ので、割愛。 ひかりさんはわたしに相応しい状況を。 旦那はわたしに時間とそのほかの全てを与えてくれる。 休日に旦那と過ごしてみると、本当にそれが確認できる。 わたしたちが二人で居る時は、概ね「ひとり」と「ひとり」なのだが… 言葉少なに彼から話しかけてくるときは、きっとわたしに必要に違いない何かをもたらしてくれる時なのだ。 わたしは本当に無自覚で、自分に必要なものが気づけなかったりコントロールできなかったりする。 ある日はわたしに「孤独」が必要であり、 ある日はわたしに「涙」が必要であり、 ある日は「睡眠」、ある日は「時間」、ある日は「温もり」… ちなみに今日の彼はこんな感じだった。 「さあ、もうこんな時間だね、たしか君は図書館に行くんじゃなかったのかな? 必要な雑用を済ませたら、図書館で借りた本でも読みながらカフェでお茶を飲むのかな。」 そこでようやく愚鈍なわたしは気づくのだ。 図書館には読むべき本が待っていて、それをわたしは一人きりで読む必要がある。 つまり今日はそういう一日で、今日のわたしはそれでようやく満たされるのだと。 それはステキなことだなと。 また別の日にはこんなふうだった。 わたしはなぜか疲れ切っていて、しかもそれに気付けずおろおろしていた。 彼の独り言。 「さて、わたしは少し横になろうかな。ほんのちょっとの時間だけどね。」 言いながらも彼は枕を大きな音を立てて整えたりと、まるでこの世の楽園が凝縮されたかのようにベッドを演出し始め…。 甘美な唸り声を上げながら、そこへ私よりも一足お先に潜り込むのだ。 こんなことをされて、例えわたしが何かに憑りつかれていたとしてもそれを投げ出さずに居られるだろうか! こんな具合で、まんまと必要な睡眠をとり終え、首ったけに没頭していたときよりも俯瞰で物事が見れる自分を獲得しているわけだ。 不思議なことが数多く起こるわたしの人生だが、「果たしてどうなっていくのだろうか?」と投げかけたところ、 「君は君として生き、君として死んでいくんだよ。それが全てでしょう。」と答えをもらった。 これ一つとってみても、やはりわたしの人生はわたしには出来すぎなんじゃないかと… やはり不思議は深まるばかりなのである。 #
by osorahahitotu
| 2011-11-21 00:58
みんなどうしてますか。
わたしは元気です。 今日久しぶりに本を借りてきて読んでいる。 フィクションだの小説だのというジャンルを嫌うわたしが、今手にしているのは日記だ。 そう、アナイスの。 19歳から一生懸命読んだアナイスニンの日記だが、無削除版が2008年に日本語訳された。 実はあまり興味が持てなくてずっと放置していたが、とうとう好奇心に負けて読んでみることに。 巻頭に訳者が、この日本語訳の編集作業について書いている。 つまりは以前に翻訳されているアナイスニンの日記と重複している部分を削除しているという。 以前に翻訳されているこのアナイスニンの日記、 …これはわたしが非常に親しんだ作品なのだが… こちらの編集は生前アナイス自身が編集作業を行ったものを土台にしており、 アナイスの内的な真実に、より忠実な作品として纏められている。 身も蓋もない言い方をすれば、アナイスの編集によって事実はどこかへ置き去りにされ、アナイスの内的な問題だけがスポイルされている。 これを読んでも、誰とどういう関係なのかは少しもわからない。 だがしかし、本当に必要なのはこういう内的な真実の部分なのであって、事実関係など二の次…わたしの価値観でいえば「どうでもいいこと」だ。 その事実関係とやらをみれば、それは大層スキャンダラスなんだろうし、 アナイスの周りの恋愛関係…あの作家とあの作家付き合ってたんだってよ。 という構造を追いかければ、ゴシップ誌が何十冊も出来そうな勢いだ。 だからって何? 人様の色恋など正直、知るか。 である。 自分のことだって、そういう側面でいえば大した興味も持てないというのに。 で、 「内的な真実の部分」は日本では翻訳済みで既出なのだから、そこは外しましょうという作業を行うと、 一体そこに何が残るのかということです。 言えるのは「アナイスニンの日記」よりもこの無削除版(笑)「インセスト」は事実関係がわかりやすい。 難解な言い回しや語彙もなくて、内的な比喩や事実とごちゃごちゃになりやすい夢の話もない。 実際、寝たなら寝たと書いてあるし。 だがしかし、 つまらん。 あの「アナイスニンの日記」を読んだ時のような、抉られるような迫りくるような… そんなものは微塵もなく、 寝たの。あっそう。と冷めた視点で見てしまうんですよ。 アナイスのことが自分は知的だと思いあがっている平凡で多情で弱々しい女に見える瞬間が多々あって、まことにつまらんのです。 わたしはヘンリーを大した作家だと思えた瞬間がないんだけど、 でも彼の著作を読んでないからしょうがないのかもねと思っていた。 実際読もうとしたことは何度もあったんですよ。 でも、つまらないんだもん。 5ページ以上、我慢できないですよ。 こうしてみるとアナイスもけっこうつまらん女なのかも知れない。 話が飛ぶようだが、彼らに欠けている部分が今の私なら判る。 それは敬虔さだ。 より大きな敬虔さに沿うように、大きく強いイデアが与えられる。 それが人間の器であり、芸術家の器であり、預かるものの器なのだ。 19歳から何年間もの間わたしを内的に支えてくれた、良き理解者であった「アナイスニンの日記」だが、 これを読み終わる頃には、その神聖な役割の魔法は解け、 私の中でアナイスもただのひとになっているような寂しい予感がある…。 #
by osorahahitotu
| 2011-11-20 23:26
| ひとりごと
みんなどうしてますか。 わたしは元気です。 今日久しぶりに本を借りてきて読んでいる。 フィクションだの小説だのというジャンルが嫌いなわたしが、今手にしているのは日記だ。 そう、アナイスの。 19歳から一生懸命読んだアナイスニンの日記だが、無削除版が2008年に日本語訳された。 実はあまり興味が持てなくてずっと放置していたが、とうとう好奇心に負けて読んでみることに。 巻頭に訳者が、この日本語訳の編集作業について書いている。 つまりは以前に翻訳されているアナイスニンの日記と重複している部分を削除しているという。 以前に翻訳されているこのアナイスニンの日記、 …これはわたしが非常に親しんだ作品なのだが… こちらの編集は生前アナイス自身が編集作業を行ったものを土台にしており、 アナイスの内的な真実により忠実な作品として纏められている。 身も蓋もない言い方をすれば、アナイスの編集によって事実はどこかへ置き去りにされ、アナイスの内的な問題だけがスポイルされている。 だが、しかし本当に必要なのはこういう内的な真実の部分なのであって、事実関係など実際二の次… わたしの価値観でいえばどうでもいいこと、だ。 事実関係とやらをみれば、それは大層スキャンダラスなんだろうし、 アナイスの周りの恋愛関係…あの作家とあの作家付き合ってたんだってよ。 という構造を追いかければ、ゴシップ誌が何十冊も出来そうな勢いだ。 正直、知るか。 である。 で、 「内的な真実の部分」は既出なのだから、そこは外しましょうという作業を行うと、 一体何が残るのかということです。 言えるのは「アナイスニンの日記」よりもこの無削除版「インセスト」は事実関係がわかりやすい。 寝たなら寝たと書いてあるし。 だがしかし、 つまらん。 あの「アナイスニンの日記」を読んだ時のような、抉られるような迫りくるような… そんなものは微塵もなく、 寝たの。あっそう。と冷めた視点で見てしまうんですよ。 アナイスのことが自分は知的だと思いあがっている平凡で多情で弱弱しい女に見える瞬間があって、まことにつまらんのです。 わたしはヘンリーを大した作家だと思えた瞬間がないんだけど、 でも彼の著作を読んでないからしょうがないのかもねと思っていた。 実際読もうとしたことは何度もあったんですよ。 でも、つまらないんだもん。 5ページ以上、我慢できないですよ。 こうしてみるとアナイスもけっこうつまらん女なのかも知れない。 話が飛ぶようだが、彼らに欠けている部分が今の私なら判る。 それは敬虔さだ。 より大きな敬虔さに沿うように、大きく強いイデアが与えられる。 それが芸術家の器であり、人間の器であり、預かるものの器なのだ。 #
by osorahahitotu
| 2011-11-20 23:09
| ひとりごと
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